それが、善光寺のすぐそばで「鴨せいろそば」「鴨南蛮そば」の名品を供してくれる老舗。旅の予定や所用が長野駅周辺で完結してしまっても、「あの一杯」を思い出すと足が自然と善光寺方面へ向いてしまう。
初めて伺ったのは5~6年前。地元の知人に「ここは外せない」と連れて行かれたのがきっかけだった。それ以来、私の中で“長野の定点”になっている。
店の名は、明治28年創業の「そば処・小菅亭」。長い年月を重ねてなお、地元客と旅人に愛され続ける理由は、のれんをくぐった瞬間に伝わってくる。
今回の訪問は実に2年ぶり。用事は駅前で済んでいたのに、どうしても記憶の中の香りと味が離れず、参道をふらりと散歩して店へ。善光寺の表参道から二本ほど脇に入った先に、落ち着いた佇まいで小菅亭はある。やや重みのある引き戸を開けると、木の温もりとそばつゆの香りが混じる、やわらかな空気が迎えてくれる。
人気店ゆえ並ぶことも覚悟していたが、この日は13時台でタイミングよく入店。入口付近にテーブルが4卓ほど、奥には小上がりがまっすぐに並び、テーブル席も用意されている。足腰に不安のある年配の方でも無理のない姿勢でそばを楽しめる座りやすさが嬉しい。店の方の所作も静かで、過度に干渉しない距離感が心地よい。
●鴨南蛮そば
この日選んだのは「鴨南蛮そば(1250円)」。冷たいそばを鴨汁で味わう「鴨せいろそば(1200円)」も捨てがたいが、外気にまだ冷えが残る日だったので、体を中から温めてくれる一杯を選択した。 注文から7~8分。湯気の向こうで湯気が重なり、目の前にお待ちかねの丼がそっと置かれる。
立ち上る香りに箸を持つ手が自然と前のめりに。ふくよかなだしの香りに、炭のニュアンスがふわりと重なる。
炭火で炙られた鴨は、供された瞬間から香ばしい香りを惜しみなく放つ。脂の輪郭はくっきりとしているのに、重さが出過ぎない。鴨南蛮の要である長ねぎも火の入りが絶妙で、甘みととろみがつゆに溶け出している。
まずはつゆをひと口。上品な鴨脂のうまみと、芯の通っただしが見事に調和し、厚みのある甘みが口いっぱいに広がる。追いかけるように炭の香りが鼻へ抜け、余韻が静かに長く続く。ひと呼吸置いてから次のひと口へ、自然と間合いを楽しみたくなる。
麺をたぐる。長野県産と北海道産のそば粉を用いた麺は力強いコシがあり、噛み込むほどに穀物の香りが立ちのぼる。のど越しは驚くほど軽やかで、濃いめの鴨つゆに負けない存在感。つゆにくぐらせる回数を重ねても、最後まで輪郭がぼやけないのが見事だ。
鴨肉は噛むほどに弾力が返り、閉じ込められた肉汁がじゅわりと広がる。脂はきれいで、重たさではなく甘みで引っ張るタイプ。つゆをまとった瞬間の一体感は、思わず目を閉じて味わいたくなる。これは病みつきになる。
つくねも鴨の旨みをたっぷり吸い込み、ふくよかでありながらしつこさがない。箸休めにねぎをかじり、つゆをもう一度。卓上の七味をほんの少しだけ振れば、香りがきゅっと締まって表情が変わる。最後のひと口まで、飽きるという感覚が来ない。
なお、冷たい「鴨せいろ」を選ぶ日もある。冷水で締めたそばの清冽さと、熱々の鴨汁のコントラストはまた格別。気温や気分に合わせて選べる二択があるのは、通う楽しみを増やしてくれる。
●メニュー&店内
そばのラインナップは言うまでもなく豊富。もり・かけの基本形に加えて、温冷のバリエーションが揃う。季節の気配を映す品書きは、訪れるたびに新しい選択肢をくれる。
サイドメニューも充実。ちょっとした一品で盃を傾けつつ、締めにそばという楽しみ方も似合う。家族連れや年配の方、ひとり旅の客まで、それぞれの時間が穏やかに流れる空気がある。
店内は落ち着いたトーンで統一され、のんびりとそばに向き合える空間。テーブル間の距離感にもゆとりがあり、会話の音量もほどよく抑えられている。観光の合間に一息つくにも、ゆるやかに時間を過ごすにも心地よい。
注文から提供までのテンポは軽やかだが、急かされることはない。そばをすすり、だしを味わい、余韻でひと呼吸——そのリズムを邪魔しない接客が、老舗の懐の深さを物語っている。
●アクセス(バス:長野駅~善光寺大門150円)
車で向かう場合は一方通行が多いので事前のルート確認をおすすめする。周辺は時間帯によって参拝客や観光客の往来が増えるため、駐車場所も含めて余裕をもって計画したい。 公共交通なら、バスが便利。最寄りは「善光寺大門」で、停留所から徒歩3分ほど。参道の空気を感じながら歩けば、店までの道のりも小さな旅の一部に変わる。
「善光寺大門」までは長野駅から150円と手頃。善光寺の参拝と合わせての訪問はもちろん、駅周辺での用事のついでに足を延ばすにも負担が少ないのがありがたい。
散策がお好きなら、駅から歩いて向かうのも一興。寄り道をしながら、街の空気を肌で感じて店に辿り着くと、そばの一杯がさらにおいしく感じられる。
長野市・善光寺界隈でそば店選びに迷ったなら、まず「小菅亭」を候補に。香り高く、滋味深く、食後の満足感が静かに長く続く一杯に出会える。ほかにも名店は多いけれど、私にとって現時点で“全国ナンバーワン”のそばはここだと胸を張って言える。
旅先での食は、しばしば記憶の中で美化されるもの。それでも小菅亭の鴨南蛮そばは、思い出補正に頼らない。再訪のたびに「やっぱりおいしい」と素直に感じさせてくれる。長野を再び訪れる理由のひとつとして、これ以上の動機はないのかもしれない。



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